悠悠閑適

小学校教員のひとり言。学校のことや子育てのこと、趣味のランニングのこと、などなど。日記がわりにいろいろ呟きます。

お掃除について

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この時期になると、来年度の教育計画についての話し合いが毎週のように行われます。もう3月になりますから、話し合いというよりは作成に入っていますね。「この全体計画にはこの言葉を盛り込んで・・・」とか「◯月の時数は何時間で・・・」というような感じです。特に、今は、「移行期」ということで、色々と確認しながら作らなければなりません。

そんなこんなで、来年度は「日課表」が変更になりました。働き方改革の流れでしょうか、もう少し放課後の時間を増やして、個別指導とか事務仕事の時間を確保しようということです。

さて、そんなことを話しながら教育計画の作成をしている時、こんな話がありました。「清掃の計画の中に無言清掃という言葉が入っていない。最近、清掃の仕方が悪くなっている。無言清掃を徹底させるために、計画の中に言葉を入れよう。」というものです。

「これまで教育計画に無言清掃という言葉が入っていないのなら、別に無言清掃でなくてもいいんじゃないの?」と思いますが、清掃前には「無言で静かに清掃しましょう」という放送が入ったり、お掃除のめあてにも「静かにお掃除する」という言葉が入ったりしています。

まあ、お掃除は静かに行った方がいいでしょう。無駄話が多ければ時間内に終わらないかもしれませんし、余計な埃などを吸い込んでしまうかもしれません。確かに、最近は清掃班の班長さんのいうことを聞かない子も増えていますし、ちょっとざわざわしていることもあります。

しかしながら、「無言清掃」という言葉を計画の中に入れる必要はないのでは、と思っています。書いてしまうことによって、それが目的化されてしまうような気がします。その言葉を入れた当初は、「これこれこうだから・・・」と、その背景や理由を知っている人たちが運営しますから問題ないと思います。ですが、数年たてば、そのような背景や理由を知っている人がいなくなります。すると、「無言清掃」という言葉だけが残ります。「よくわからないけど、書いてあることだからとりあえずやっとけ」と、形だけになってしまうように思います。(たかが清掃のことですから、そんなことはないのでしょうが・・・)これって、他のことでもあるような気がします。当初の考え方とか理念とかそういうものがだんだん薄れていって、形だけが残ってしまうこと。これってあまりいいことではないと思います。

それに、無言清掃がそれほど大事なこととは思えません。清掃は綺麗にするのが目的でしょう。無言で行うのは、そのための手段です。ですから別の手段であってもいいわけで。うるさいのは困りますけど、少し話しながらの方が綺麗になるかもしれませんし。

「無言で行うとこんないいことがあるよ」と伝えることは必要と思います。「書いてあるから黙ってやれ」ということにならないようにすることが大切だなと思います。(結局、来年度の教育計画には「無言清掃」は書かないことになったようです)